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大阪地方裁判所 昭和57年(ワ)8315号 判決 1984年9月19日

原告

富田和朗

右訴訟代理人弁護士

板東宏和

前川宗夫

森正博

三木孝彦

被告

森工機株式会社

右代表者代表取締役

森基悦

右訴訟代理人弁護士

牛田利治

大野潤

主文

1  被告は、原告に対し、金一二一万五〇〇〇円およびこれに対する昭和五七年一一月一七日から完済に至るまで年六分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、これを三分し、その一を被告の、その余を原告の負担とする。

4  この判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金三一〇万五〇〇〇円およびこれに対する昭和五七年七月二一日から支払済まで年六分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告(以下「被告会社」ともいう)は、アルミ製品の製造販売等を主たる目的とする株式会社である。

原告は、昭和三九年三月一日、被告に雇用され、その後被告の営業部長として勤務し、同五七年七月二〇日、退職した。

2  退職金請求権の発生

(一) 被告会社には退職金規定があり(以下「本件退職金規定」という)、これによれば、退職金額は、退職時の基本給月額に勤続年数に応じた一定の支給基準率を乗じて算出された額とされ、これを退職後すみやかにその全額を支払うこととなっている。

(二) そして、退職金額算定の基礎となる原告の退職時の基本給月額は一一万五〇〇円を下らず、また、原告の勤続年数は昭和三九年三月一日から同五七年七月二〇日までの一八年であり、勤続一八年の支給基準率は二七であるから、原告の退職金額は、一一万五〇〇円×二七=三一〇万五〇〇〇円となる。

3  よって、原告は被告に対し、退職金三一〇万五〇〇円及びこれに対する原告が退職した日の翌日である昭和五七年七月二一日から完済に至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同 2(一)の事実は認める。

同2(二)のうち、勤続一八年の支給基準率が二七であることは認め、その余は争う。

3  同3は争う。

三  被告の主張、抗弁

1  原告の被告会社における地位等

(一) 原告は、被告会社の昭和五〇年一二月二五日開催の株主総会において、取締役に選任されてその旨登記され、原告は、これを承諾して常務取締役に就任し、以後、営業活動の最高責任者として社内外において常務取締役として行動してきた。

(二) ところで、常務取締役は、取締役会から会社の機関としての取締役の職務として通常の業務の執行を決定し、かつ実行すべき職務権限が与えられており、専らその職務にだけ専念すべきであると共に、会社の業務につき決定し執行する行為は、すべて機関としての行為であって、かような地位と権限を有する者が、それと併せて従業員たる地位を兼ねることは、理論的にも実際的にもありえないことである。

(三) したがって、原告は右のとおり常務取締役に就任すると同時に被告会社の従業員としての地位を喪失したものというべきであるところ、本件退職金規定は従業員の退職金について定めたものであるから、従業員たる地位を有しない原告には本件退職金規定の適用がない。

2  退職金の支給について

(一) 仮に、原告が従業員兼取締役たる地位を有していたとしても、従業員たる地位に基づく退職金に相当する部分について商法二六九条の規定の適用がないことになるのではなく、やはり全額について同法の適用があるというべきであり、そうすると、原告に対する退職金支給につき同条所定の定款の定め又は株主総会の決議を要するところ、定款の定めも株主総会の決議も存しないから、原告の退職金請求権は全額発生していない。

(二) また、中小企業ではしばしば正式な株主総会を開かずに取締役を選任しているところ、このような場合に、取締役ではないことを理由に退職金支給につき商法二六九条の適用がないとすると、同条のお手盛り防止の法意が没却されてしまい不当であるから同条の適用があると解すべきところ、仮に、本件株主総会が不存在で、原告は取締役に適法に選任されなかったとしても、前記1(一)のとおり原告は常務取締役として行動してきたのであるから、原告の退職金支給につき同条の適用があるというべきである。

3  相殺の抗弁

仮に本訴債権が認められるとしても、被告は原告に対し、昭和五八年六月二八日の本件口頭弁論期日において、次のとおりの損害賠償債権をもって、原告の本訴債権とその対当額において相殺する旨の意思表示をした。すなわち、

原告は、昭和五六年二月当時、常務取締役として営業活動における最高責任者であったところ、新規取引先である東北技研工業株式会社と取引を開始するにあたり、事前の調査をせず取引を開始し、その後、同年三月に入り東北技研に関する信用調査をした結果、同年三月二六日、東北技研は実質的業務を開始してから二か月未満であり、資産性らしきものは一切なく、資金繰りもその調達背景は不明確である等ペーパーカンパニーに近い状態にあり、極めて注意を要するという報告を得た。そして、被告会社は、右当時東北技研に対し約三〇〇〇万円の売掛債権を有していたところ、右のような報告を得たのであるから、右取引の責任者である原告は、東北技研に対し通常の取引よりも一層注意力を働かせ、東北技研の営業及び経理の状態を調査して、売上を減らすなど取引を縮小、小規模化していかねばならない義務があり、かつ、原告は被告会社の営業担当常務取締役として被告会社のため善良な管理者の注意をもって判断すれば、右のような事情から東北技研に対する売掛金回収の困難を当然予見できたにもかかわらず、逆に、東北技研との取引量を大幅に増加し、エクステリア商品の出荷を拡大継続したため、昭和五七年七月までに、八七八六万三二五一円の商品が販売されたが、東北技研が代金支払のため振出した手形が全部不渡となり、その代金は全く支払われず、結局右金額の売掛債権が回収不能となって、被告は右同額の損害を被った。そして、右損害は、原告が右のとおり被告会社に対する善良な管理者としての注意義務を怠ったために生じたものというべきであるから、原告は被告会社に対し、右損害を賠償する義務がある。

四  被告の主張、抗弁に対する認否

1  被告主張1(一)のうち、原告が昭和五〇年一二月二五日に被告会社の取締役に就任した旨の登記がなされていることは認め、その余は否認する。被告主張の株主総会の取締役選任決議は存在せず、したがって、原告は右昭和五〇年一二月二五日以降も退職するまで被告会社の従業員であった。

同1(二)、(三)は争う。

2  同2(一)、(二)は争う。

3  同3のうち、被告主張の原告に対する損害賠償債権の発生に関する事実は否認し、相殺の主張は争う。

第三証拠

証拠関係は、本件記録中の証拠関係目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求原因1、2(一)の事実は、当事者間に争いがない。

二  原告の本訴請求は、原告が昭和五七年七月二〇日被告会社を退職してその従業員たる地位を喪失したことに伴う退職金の支払請求である。これに対し、被告は、原告は昭和五〇年一二月二五日開催の株主総会において取締役に選任されて常務取締役に就任し、同時に従業員たる地位を喪失したので、原告には本件退職金規定の適用がない旨争うので、まず、退職時の原告の被告会社における地位及び本件退職金規定適用の可否につき検討する。

1(一)  被告会社の商業登記簿に原告が昭和五〇年一二月二五日取締役に就任した旨の記載がなされていることは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、次の事実が認められる。すなわち、

原告は、昭和三九年三月一日被告会社に入社し(この点は当事者間に争いなし)、昭和四七年頃営業部長となり、得意先の開拓、商品の販売やその促進の業務に就いていた。ところで、被告会社代表者は、昭和五〇年一二月、営業担当の常務取締役下地が退任するのに伴い同人の後任者に原告を充てることにし、同月二五日頃、従業員や一部株主を集めて、原告が右下地の後任として取締役に就任する旨発表し、原告に対して常務取締役に就任するよう要請した。これに対し、原告は、常務取締役就任を承諾し、そして、昭和五一年頃から、原告の職務内容は、従来からの営業部長としての得意先の開拓や商品の販売に加えて、被告会社の各営業所の視察、監督、小額の営業関係経費支出についての禀議書の決裁、昭和五五、六年頃から不定期に開かれるようになった役員会に出席してその議事に参加することの職務が加わり、また、原告の給与も、昭和五一年以前においては、基本賃金名目の賃金のほかに職能、本人、家族、管理者及び調整各手当名目で賃金が支給され、昭和五〇年一二月における原告の給与支給総額は二一万一六〇〇円であったが、昭和五一年一月以降原告が退職する同五七年七月まで基本賃金名目の報酬一本となり、しかも、昭和五一年三月からそれまでの二一万一六〇〇円から三〇万円に増額され、その後漸次増額されて昭和五五年六月から退職時まで四五万四六〇〇円となったが、反面、昭和五二年まで支給されていた賞与が昭和五三年から全く支給されなくなった。さらに、原告は、昭和五一年以降、社内において常務と呼称され、また、「常務取締役」の肩書の付いた名刺を使用して営業活動し、昭和五七年に退職するに際しても、取締役を辞任するとの認識をもって、その旨を記載した「辞任届」(乙六号証)を被告会社に提出して、同年七月二〇日被告会社を退職した。

(二)  しかしながら、(証拠略)によれば、次の事実が認められる。すなわち、

被告会社では、被告会社は、その代表取締役森基悦の支配するいわゆるオーナー会社で、昭和三六年一二月八日に設立されて以来、商法所定の手続に則った株主総会が開かれたことは全くなく、会社役員の選任についても、株主総会の議決を経ることなく、専ら被告会社代表者が独断的に決定してきており、原告を取締役とするについても、前記のとおり、被告会社代表者が独断的に決定し、株主総会を開催することも、株主総会の議決を経ることもなく、一方的に原告を取締役に選任したとして、その旨の登記をしたものであるが、その際、被告会社の退職金規定に基づく退職金の支給、退職届の提出等、原告の従業員としての地位の喪失に伴い必要な手続を何らせず、また、昭和五一年以降の原告の業務実態は、それ以前原告が営業部長としてなしていた得意先の開拓や商品の販売とその促進が主たるものであって、基本的には変化はなく、ほとんど使用人として代表取締役の指示に従い販売業務に携わっていたものであり、昭和五一年以降新たに加わった前記職務についてみても、各営業所の視察、監督は営業部長としての当然の職務範囲内のものであるし、営業関係経費支出についての禀議書の決裁も、役員でない各営業所長が小額なものについてであるがなしうるものであって、常務取締役の専権事項ではなく、原告出席の役員会も専ら販売促進に関するいわば販売促進会議のようなものに過ぎないものであった。

以上の事実が認められ、被告会社代表者本人尋問の結果中、右認定に副わない部分は採用し難く、他に認定を覆すに足る証拠はない。

(三)  以上、(一)、(二)の認定事実を総合すると、原告は、昭和五〇年一二月二五日に取締役に選任された旨登記され、昭和五一年以降、給与面で被告会社の常務取締役としての扱いを受け、原告自身も常務取締役となった認識をもってその業務に当たっていたものであるが、しかしながら、原告に授けられた常務取締役の役名は、ただの名称というに等しく、右役名に相応する権限も責任もなく、原告の従前からの業務内容は右役名の付与によって格別変化するものではなく、ほとんど使用人として代表取締役の指示に従い販売業務に携わっていたものであるから、原告は、右昭和五〇年一二月二五日以降同五七年七月二〇日に被告会社を退職するまで同会社の従業員たる地位を有しており、右退職により従業員の地位を喪失したものというべきである。

(四)  もっとも、被告は、原告は常務取締役であったから従業員を兼務することは理論的にも実際的にもありえない旨主張するが、しかし、常務取締役であっても、その者の職制上の地位が定款の規定等により明確に定められていない場合には、その職務の実態に応じて使用人兼務役員として取り扱われるべきか否か判断されるべきところ、常務取締役の職制上の地位について明定している定款の規定等の存在を認める証拠がないばかりでなく、前示のとおり、原告の職務の実態は、業務の執行にほとんど参画せず、専ら使用人として代表取締役の指示に従い、販売業務に携わっていたものであるから、原告は、使用人(従業員)の地位を有していたものというべきであり、したがって、右被告の主張は採用しない。

2  叙上のとおり、原告の取締役選任についての株主総会とその決議は不存在で、適法な選任行為はなかったものであり、原告は退職時まで従業員の地位を有していたものであるが、しかし、原告は給与等の待遇面で常務取締役としての取り扱いを受け、原告自身も常務取締役であるとの認識を有して業務活動をしていた表見取締役であるから、少なくとも、退職に伴う退職金支給については、従業員兼役員としてのそれと同様の取り扱いを受けるものと解するのが相当である。ところで、退職取締役が従業員の地位を兼任していて、取締役の辞任と同時に退職により従業員としての地位をも失う場合には、従業員に対する退職金支給規定があって、その支給規定に基づいて支給されるべき従業員としての退職金部分が明白であれば、少なくとも右部分に対しては、商法二六九条の適用はないと解するのが相当であるところ、被告会社には従業員に対する退職金支給規定があり、そして、後記三のとおり、その支給規定に基づいて支給されるべき従業員としての退職金部分が明らかであるから、右部分に対しては商法二六九条の適用はないものというべく、したがって、原告の右退職従業員としての資格に基づく退職金の支給については、本件退職金規定の適用があるものというべきである。

そして、右に反する退職従業員たる資格に基づく退職金に相当する部分についても商法二六九条の規定の適用がある旨の被告の主張(被告の主張2(一))は、採用の限りでない。

三  原告の退職金額の計算

1  既に説示したとおり、原告に対しても本件退職金規定の適用があるというべきところ、本件退職金規定によれば、その退職金額は、退職時の基本給月額に勤続年数に対応した一定の支給基準率を乗じて算定される額となっているので、以下、右にそって退職金額につき検討する。

2  退職金算定の基礎となる退職時の基本給月額

(一)  原告は本件退職時被告会社から一か月四五万四六〇〇円の金員の支給を受けていたこと、原告が従業員兼務の取締役としての待遇を受けていたこと前説示のとおりであるから、原告の右受領金には、取締役としての報酬は勿論、従業員としての労働の対価をも含んでいたと解するのが相当である。

しかして、原告は被告会社の取締役として遇される直前、同会社より一か月合計二一万一六〇〇円の支給を受けていたこと前示のとおりであるところ、右(一)の認定事実と、前記認定の原告が昭和四七年頃営業部長になってから本件退職におよぶまでの間、従業員としての担当業務内容には基本的に変更がなかったことを合せ考えると、原告は、その取締役の待遇を受けていた期間中従業員としての労働の対価として、少くとも、右二一万一六〇〇円を下らない金員の支給を受けていたと認めるのが相当である。

(二)  ところで、(証拠略)によれば、本件退職金額算定の基礎となる基本給月額とは、被告会社の各従業員別賃金台帳に記載の「基本賃金」として計上されている金額を指すものであること、そして、原告は、取締役として遇される直前、被告会社より基本賃金名目で四万五〇〇〇円の金員の支給を受けていたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

そうすると、原告の退職金額算定の基礎となる基本給月額は、右四万五〇〇〇円を下らないものと認めるのが相当である。

(三)  もっとも、原告は、退職金額算定の基礎となる基本給月額は一一万五〇〇円を下らない旨主張し、(証拠略)によれば、原告の被告会社退職当時被告会社の総務部長の職にあった生駒三男の基本賃金は一一万五〇〇円であり、昭和五〇年当時における原告の基本賃金額は右生駒のそれより僅かながら高かったこと、被告会社の給与規則では、基本給の決定は、「従業員に割当てる職務の複雑の責任の度」に応じる旨規定されていることが認められ、また、法人税法上で法人が、使用人兼務役員に対する使用人分の報酬を支給限度額に含めていない場合には、役員が現に従事している使用人の職務と概ね類似する職務に従事する使用人に対して支給する給料に相当する額が、原則として使用人分の報酬として相当な金額とされるし(法人税法基本通達九―二―七)、この使用人分給料の適正額を算定するに当たって、その使用人兼務役員が現に従事している使用人の職務内容答(ママ)からみて比準すべき使用人として適当な者がいないときは、その使用人兼務役員が役員となる直前に受けていた給料の額、その後のベースアップ等の状況、使用人のうち最上位にある者に対して支給した給料の額等を参酌して適正に見積った金額によることとされていること(前掲通達)などからすると、原告が退職時被告会社から支給されていた基本賃金名目の四五万四六〇〇円のうち、従業員としての労働の対価部分は、右生駒の基本賃金一一万五〇〇円を下らないものであろうと考えられなくはない。しかしながら、右通達は、法人税課税に関して、法人の役員に支払う報酬が原則として課税所得の計算上損金の額に算入されるが、不相当に高額な部分は損金不算入とされているところ、役員報酬の過大額の判定のうち、使用人兼務役員について使用人としての職務に対するものを含めないで限度額を定めている場合には、使用人分給料に相当する部分を控除して、その残額が定款等に定める報酬の支給限度額を超えているかどうかを判定することについてのものであって、法人税課税上当該役員報酬が損金として算入されるか否かの問題とは事案を異にする本件においては、当然には右通達を本件に援用しえないといわねばならず、また、原告退職時、原告の従業員としての職務内容が生駒のそれと対比して複雑で責任の度合も同等以上であったと認めるに足る証拠はないばかりでなく、被告会社において、基本賃金部分につき、原告の従業員としての労働の対価を生駒のそれと同等以上のものと認識していたかどうかも全く不明である。したがって、前記のような事情があるからといって、原告の退職金額算定の基礎となる基本給月額が、前記生駒の基本賃金額一一万五〇〇円を下らないものとは認め難く、本件全証拠によっても本件退職金額算定の基礎となる基本給月額が一一万五〇〇円を下らないとは認められない。

よって、原告の右主張は採用しえない。

3  次に、原告は、昭和三九年三月一日、被告会社に雇用され、同五七年七月二〇日に退職したこと前述のとおりであるから、結局、原告は一八年四か月余りの期間従業員として勤続したことになり、そして、本件退職金規定所定の勤続一八年に対応する支給基準率は二七であるから(この点は当事者間に争いがない)、本件退職金規定に基づく原告の退職金額は、基本給月額四万五〇〇〇円に支給基準率二七を乗じた一二一万五〇〇〇円となる。

四  相殺の抗弁につき判断する。

被告は、原告の債務不履行により被った損害の賠償債権をもって、原告の退職金債権と相殺する旨主張する。

ところで、労働基準法二四条一項は、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」と規定するところ、この規定は、労務の提供をした労働者本人の手に労働の対価である賃金を残りなく確実に帰属させんとする趣旨の規定であるから、労働者の賃金債権に対しては、使用者が労働者に対して有する債権をもって相殺することは許されないとの趣旨を包含するものと解するのが相当である。

しかるところ、退職金については、これを使用者が就業規則等中に規定を設けて、予めその支給条件を明確にし、その支払が使用者の義務とされている場合には、退職金は労基法所定の賃金に当ると解するのが相当であるところ、(証拠略)により認められる本件退職金規定の規定内容及び弁論の全趣旨を総合すると、本件退職金は労基法所定の賃金に該当するものというべきである。

そうすると、被告において、原告に対する損害賠償債権をもって、原告の退職金債権と相殺することは許されないものといわねばならない。

よって、その余の点について判断するまでもなく、右被告の相殺の主張は失当である。

五  以上のとおりとすると、被告は原告に対し退職金一二一万五〇〇〇円を支払う義務がある。ところで、退職金の支払時期について、本件退職金規定は、「退職後すみやかにその全額を支払う」と規定している(この点は、当事者間に争いなし)が、「すみやかに」の意義については法律用語としての用語例としては、訓示的意味を有するものとして用いられ、義務違反を引き起こす趣旨で用いられないのが一般であり、したがって、本件退職金規定所定の右「すみやかに」も他に特段の事情のない限り、右と同様の趣旨に解するのが相当であり、そして、これと別異に解釈すべき特段の事情を認めるに足りる証拠はない。そうとすると、本件退職金規定の右支払時期に関する規定部分が退職時を退職金の支払日とする旨を定めたものとはいえず、他に本件退職金の支払期日につき確定期限の存在を認めるに足る証拠はないから、本件退職金支払債務は期限の定めのない債務というべく、また、本件退職金は、前掲四のとおり労基法所定の賃金であるから、その支払につき同法二三条の適用があるというべきところ、原告の被告に対する本件退職金請求の日時は、記録上明らかな本件訴状送達の日(昭和五七年一一月九日)と認めるのが相当であるから、したがって、右昭和五七年一一月九日より労基法二三条所定の七日おいて後の同月一七日から被告は本件退職金支払債務につきその遅滞の責を負うべきことになる。そして、被告会社は商法上の商人であり、本件退職金支払債務は、原・被告間の雇用契約という付属的商行為により生じた債務であること明らかであるから、結局、被告は原告に対し前記退職金一二一万五〇〇〇円に加えてこれに対する昭和五七年一一月一七日から完済に至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金を支払う義務があることになる。

よって、原告の本訴請求は、右認定の限度で理由があるから、右の限度で認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 千川原則雄)

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